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8月下旬に入っても、連日37度ってどういうことー(;゚Д゚)
とはいえ、のびきってるわけにもいかず。
facebookからつながるブログをこことは別に作成、それらと相関するようにサイトのトップを刷新しました。

ついでに、このブログデザインを夏から秋へ変更。
パソコンは茶地に散歩する猫、スマホとモバイルは南国らしき海岸にしてみました。
ホントは、パソコンのデザインで統一したかったけれども、揃ってないんじゃ仕方がない。

近頃、習慣づけてること。
スマホで見て気になった記事はDropboxに共有して、パソコンのブックマと合わせて、ネタログ化に励んでます。
マンガにできること、動画にしたいこと、思考の訓練に使いたいこと、いろいろ。
ネタログ化した中には、自分で書いた気がしないテキストも。

共感という幻想

先日、平和祈願碑の写真をFacebookに投稿したときのこと。
コメントには、その碑が建立された歴史を書こうか考えたが、碑文のみにした。冗長より足らないくらいがよいだろう、と。

ハフィントンポストはおもしろいが、記事末のツイート群はつまらないので、ない記事もあればと思う。
なぜつまらないか理由を考えると、その事柄なり事象なりを議題にすれば、ツイートという文字数が限られる性質上、個々人の感情を述べ合うに留まるからだ。
さらに、感情を述べ合うことは、自然と共感の篩でその話題を目にした者を分別するようになる。
そうすると、そもそも記事にした目的であろう、ではどうするのがよいかという行動の提起を招くことからは遠ざかってゆく。
加えて、記事をシェアすれば、その感情論もシェアされてますます共感の輪が広がり、いわゆる善意や正義を個々人の感情において根拠とし、他者にも同意を求める傾向が強まるだろう。
しかるに、記事のシェアはその記事そのものに意義を見出し、広めたいと考えた場合でも、常に避けるのが最適なのかもしれない。
そういうことを考えた。
人の考えをつまらないとか、失礼なことを書いてますが。
なにぶん書いた当人に覚えがなく、なまあたたかい目で見ていただければと思います。

明日からは雨予報。